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櫻井子安神社について

子宝神社 縁結び神社 櫻井子安神社

御祭神

木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)

木花咲耶姫命は、桜の美しさを象徴する女神です。
古来、日本人は花が盛大に咲き誇るように、社会の発展や物事の繁栄を連想してきました。
神話では、日本の山の神様であるオオヤマツミ神の娘で、天孫ニニギ命と結婚して、その日継ぎの御子、天照大神の子孫を生む神母とされています。
また、富士山の神でもある木花咲耶姫命は、民間信仰の子安神と結びついて、子授け、安産、縁結びの神として庶民生活に密着して広く信仰されています。

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)

この二柱の神様は、古事記にもあるとおり神話のなかに一番最初に登場する夫婦神です。
数々の国土を誕生させる「国生み」や、八百万の神を誕生させた「神生み」を行いました。このことから、縁を結ぶ神、夫婦婚姻の神、子授安産の神とされています。
この二柱の神を祀ることによる御神徳は、神々の生みの親というところから行く先々でのさまざまな神の御守護をうけられるとして、上記の他に延命長寿、縁結び、産業繁栄、商売繁盛、出世開運、学業成就、無病息災と幅広いものとされています。

由緒

当神社は、上代家の本務社である東庄町舟戸の「左右神社(白鳳12年[683年])」の境外社として櫻井の地に鎮座しており、御祭神に木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)を奉齋しております。

勧請の年月は、詳らかではありませんが極めて古く、祖先が第十二代景行天皇の御代、この地に移住開拓の折に郷土鎮護の守護神としてお祀りしたことが始まりと伝えられております。当初の御祭神や、現在の三柱となった明確な時期は定かではありません。

ただ、子安神の側面として木花咲耶姫命、氏神様の側面として伊邪那岐命、伊邪那美命をお祀りしたと考えると、神職宅の隣に祀られていることから、元々は本務社である左右神社の御祭神の伊邪那岐命、伊邪那美命の御分霊を氏神様としてお祀りされていたところへ、子安信仰、富士信仰の時代的な流れから木花咲耶姫命を主祭神としてお迎えしお祀りされるようになり、その際に子安神社となったのではないかと考えられます。

また、櫻井子安神社のある地区は「寺町」といわれ櫻井子安神社の隣には過去にお寺がありました。現在、お寺のあった場所は地区の集会所となっています。長らく神仏混淆の時代でありましたから、お寺のすぐ隣にある子安神として地域の婦女の信仰の場として存在していたという面も伺えます。

過去の神社再建等に関する出来事で現在まで伝わっていることは以下となります。

宝暦3年(1753年)、櫻井村の村長を願主として広く信徒の協賛により再建され、その際、香取神宮 大宮司を迎え盛大に遷座の儀式が執り行われました。

天保2年(1831年)、上代郷八ヶ村の氏子中の奉賛により御神輿を修造し、併せて太々神楽を奉納され、以来暫くの間継続して神楽は執り行われておりましたが、その後、諸事情により当社での奉納は途絶え、左右神社及び柳辺(旭市萬歳)の天満稲荷神社氏子へと伝えられ奉納されるようになりました。現在は、左右神社でのみ春の例祭にて神楽の奉納がされております。

明治18年10月に社殿屋根葺き替え、その後、5回に亘る御社殿の修繕、定期的な鳥居の改修が行われ現在に至っております。
特に大正時代の一時期、昭和の戦中戦後の社殿、境内の荒廃は酷く、これを看過するに忍びないと、どうにか再興するべく敬神の念篤き有志等(現在の旭市中和地域、万力、鏑木、秋田地区)、旧縁深き上代郷八ヶ村(現在の旭市櫻井、万歳、溝原、関戸、東庄町東部地域)の人々により再建されて参りました。

毎年の祭禮行事として、10月中旬から下旬に虫封講、お子安講として左右神社氏子地域を対象に盛大に講社祭が執り行われ、その後、松澤熊野神社の氏子地域も加わり広範囲から訪れた多くの婦人の方々に御神札が授与されておりました。現在では、社会生活の変化、少子化により講社祭として一斉に行われることはなくなり、年間を通して良縁、子授け、安産、子供の息災成長の祈願をその都度行うようになっております。

年中行事

  • 1月1日 元旦祭
  • 2月17日 祈年祭
  • 11月吉日 赤麻紐奉納神事
  • 11月23日 新嘗祭
  • 毎月1日、15日 月次祭

縁を結び、人々をお守りくださる「子安さま」

古来当神社は、お祀りしている御祭神からもお分かりのとおり良縁を求める人々の縁結びのご利益出産は勿論、なかなか子宝に恵まれない婦人の信心宿願あれば顕著な霊験があるとして、遠くからも陸続と参詣者があり、上代郷櫻井(古き土地の名称)の子安さまと尊称されていました。また、古くは櫻井子安大神と呼ばれております。

口伝によれば、当社の赤麻紐(子安さまの赤帯)は、男女の縁は固より親子の縁をも繋ぐと云われ、良縁を望む子女、子宝に恵まれない婦人は、懐中に抱くことによりその願いが叶うと伝えられています。
後に、この赤麻紐は、良縁、子宝安産の他にも健康、学業、開運等の御利益もあるとお守りとして人々に大切にされております。

祈願玉
現在は、赤麻紐が中に納められた大きな「祈願玉」が御神前に供えられております。いつでも触れられるので、参拝時には、祈願玉を撫でる、抱くなどしてお祈りをされます。
※祈願玉を握れるサイズにしたお守りもございます。握れるお守り 祈願玉

子宝、安産御神札
子宝安産の御神札。御神札を自宅でお祀りし、出産されるまで御神札に添えてある赤麻紐をお守りにして身に着けていただきます。
※今は持ち歩けるように赤麻紐を納めたお守りも頒布しております。

当神社の鎮座します地域は、神葬祭(神道式の葬儀)を行う家庭もあるということから、命を授かり誕生し、七五三を経て、成長の過程での儀礼、厄祓い、健康長寿の祈願、そして実りあった一生を締めくくる神葬祭と、子安さまは、人の一生を見守ってくださる神様としても大変貴ばれております。

神職 裁許状
これは、元禄9年(1696年)に本務社である左右神社[古称:左右大神]の宮司であり当時の櫻井子安神社[古称:櫻井子安大神]の宮司でもある上代家当主の上代備後守藤原重光が吉田兼倶が大成した吉田神道より享けた神道裁許状です。これは、この時期に吉田家が全国に影響を及ぼす程の力を持っており、神職の統制、国内の神道への信仰をより強固なものへとしていくなどの理由により発行されていたようです。

赤麻紐(子安さまの赤帯)

大神様の帯として用いられる、とても尊い麻紐です

この赤麻紐とは、麻を赤く染めたものを御神体の帯として使っているものです。毎年11月の吉日に、御神体の帯を新しくする神事を行いますが、これは、神様のお召しになるものを替えるということなので、人知れず宮司一人が行っております。
ここで交換した赤麻紐に御利益があるとされ御守、御神札に用いられるようになりました。

赤麻紐
これが今まで赤帯として納められていた赤麻紐です。交換したものは神前に並べられ、御神札、御守に使われます。

赤麻紐が納められた清らかなお守り

櫻井子安神社御守
この御守には、中に赤麻紐が入っています。大きさは、名刺よりも一回り小さいです。写真に載っている他にも違う種類の御守もございます。

この他にもお守り、願掛け絵馬、交通安全ステッカーなどございます。

メディア紹介

  • 日本全国 ねこの御朱印&お守りめぐり【書籍】
  • 御朱印でめぐる千葉の神社【書籍】
  • 千葉の御朱印めぐり 開運さんぽ旅【書籍】
  • シーシーロード トヨタカローラ千葉【社報誌】

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